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日本画 川端龍子

川端龍子

日本画家、川端龍子は大正から戦後を生きてきた日本画家。本名は昇太郎。1885年和歌山県に生まれます。彼の幼少期にはその感性の鋭さを語るエピソードがあります。鯉のぼりの美しさに魅力を感じた彼は職人の元に通いつめてその絵を真似し続けたというエピソードがあります。 このように、生来絵を描くことが好きだった川端龍子。中学時代、読売新聞社が主催した「明治三十年画史」で彼の作品が2点入選。このことがきっかけとなり、画家として本格的に生計を立てようと志すようになります。 元々、洋画家を志していた川端龍子ですが20代の頃にアメリカに渡航した際、ボストン美術館で東洋の絵画の美しさを目の当たりにします。日本人が描いた洋画など評価されないという現実に追い詰められていた頃です。 その時に見た「平治物語絵巻」彼はその美しさが持つ日本画の美しさに魅了され日本人であることのアイデンティティを考えるようになります。そこから、彼は日本画家として再出発をするのです。 彼の作風は洋画の影響を受けていることもあり、日本画の様式美とは異なる部分も多くありました。例えば、鮮やかな色遣いや構図と言った絵自体の描き方はもちろん、会場芸術主義という思想の持ち主で、巨大な作品を作り展示するという方式にこだわりを持っていました。 自分のやりたい大作主義を貫くために日本美術院を脱退。自らが創始者となって「青龍社」という日本画団体を創設することになります。写実的な、精巧な絵が好まれる日本画の世界で彼の芸術は、やはり理解が得られにくいものでした。 会場芸術主義は観客に対して巨大な日本の芸術をじっくり味わってもらいたいという観点から生まれたものでした。自宅ではなく会場で芸術を見せるという思想。どことなく西洋的な芸術の鑑賞手法とも共通項があるように感じられませんか?そのやり方は彼の生涯と多分に関係しているでしょう。 日本画に対する独自の活動姿勢。これは当時の画壇ではやはり異質な存在でした。川端龍子は、大正から戦前戦後にかけて異端児的な存在であったのです。